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名古屋トライアングル project

街に仕組まれた幾何学構造・潜在力から、名古屋のまちづくりを思考する私論ブログ

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Kashiwa★da

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2007.05
26
明治末期の地図を眺めれば ・・・

明治43年名古屋市地図 明治43年名古屋市地図

今に続く 街の骨格 が、既に形作られている事に気付く。

- 碁盤目構成を生かしたまま、
- 完全に街を横断(貫通)した広小路は、
- その勢いを買って益々東へと伸びていく様子が伺えるし、
- また大津通は広小路以南が拡幅され、
- 本町通と併せ熱田の街との連絡が蜜になっている。

それらの幹線道路と、そして新設された新堀川の存在が、
街の 南東部への急速な拡がり を促したことは確かだろう。

その結果、東海道線と中央西線で囲まれた名古屋の街は、
既にその 囲みの中ではち切れんばかりの状態 に成長している。

・・・・・・
・・・・・・

この囲いが打ち破られるのは、成程時間の問題なのだが、
この時の、この パンパンの城壁都市の如き都市様相 こそは、
・・・私にとって、とっても示唆に富んだ 「そうか、なるほどな!」 であった。

K10D + DA 16-45mm / F4 ビュンッ!

はい、ピカピカピカッと、
・・・・・・
名古屋の街の骨格が ・・・ 眼の前に ・・・ 見えたのだ。

ようやくだけれど、・・・それは次回。
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2007.05
23
明治33年に、名古屋の街は鉄道によってグルリと囲まれた
- 前回記事 ○ K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 高さ制限2.2m(金山駅そば) 

西は東海道線、そして東は中央西線。

おそらく鉄道の敷設が、全ての市民に諸手を挙げて歓迎された訳ではない。
従って街の際ギリギリということは無く、
と言うよりは、市街地から大きく距離をとって(現在東区は除く)敷設された。

そうなのだ、ここでやっと私は気付いたのだが ・・・

近代化に向けて産声を上げた当時の そもそもの名古屋の街 がそこに示される。
その そもそもの名古屋の街 は、
今の姿からは全く想像できない程にかなりちっちゃ~いのだ。


ではさっそく、先日「・・・メッケ」と書いたサイト:映像で綴る名古屋の400年 にある
明治20年と43年の地図を見てみよう。

○ 映像で綴る名古屋の400年
  - 映像で綴る名古屋の400年>明治時代>資料で綴る名古屋の明治時代>拡大地図


例えば、明治43年の地図に、
精進川の付替えによる新堀川を眼にする事ができるのだが、
これもおそらく当時の街外れの、その市街地の際に寄り添うように引かれたはずである。

・・・・・・
・・・・・・

ところで、その後の名古屋の街の発展への契機と言えば、
それはやはり・・・千種駅の開業 だろう。

Google Earth をキャプチャー + 加筆 中央西線 × 飯田街道 = 千種駅

- この駅は、広小路を東に延長させた線上に位置しているのだが、
- 最初から広小路を意識していたのかどうか・・・
- ・・・・・・
- むしろ、東方への主要路であった 飯田街道と交わる場所
- という意味合いの方が大きかったのではないだろうか・・・

*istDS + XR Rikenon 50mm / F2 広小路から南方向を見る

しかし、まぁ・・・
現在の久屋大通の位置で愛知県庁舎に突き当たっていた広小路は、
・・・(現在見られるように)・・・
明治35年に県庁舎をどけることによって 東へと延長
また翌36年には「 ~千種駅 」 市電も開業する(既に廃止) こととなる。

○ 名古屋市:広小路通の歴史
○ 愛知県庁舎の歴史 昔の庁舎

K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 高さ2.2m通行路(戦後工事)の中から


この時広小路は、名古屋駅と千種駅という街の端と端を結びつけた

それはもう図ったように 街の中心を横断する往来 にパワーアップし、
その後の名古屋の街を牽引していくことになる。
そしてまた、街の活動域は 南北軸から東西軸へ と重心を移していくのである。
2007.05
20
名古屋の 街の西のはずれ に、
文明(鉄道)開花 の波が押し寄せてきた様子は、前回までの記事で。
○ ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 2つの「名古屋~大阪」開業



さて、以前の記事中でリンクした
○ 鉄道博物館 収蔵資料紹介 にも記されているように
当初の 「東京~京都間幹線鉄道のルート候補」 であった中山道ルートだが、
・・・・・・
・・・・・・結局、この地でその路線が開業し始めるのは、
東海道全線開通(明治22年)に遅れること11年、
明治33年の 「名古屋~多治見」 である。

10● ~1900年(明治33年)7月25日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 ようやく「名古屋~多治見」

ここで面白いのは、そのルートが本来の「 中山道 」ではなく、
名古屋の街を囲い込む形 で、
大きく南に迂回して名古屋駅に接続している事だ。

K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 当時は、東の街はずれ

それも、金山(現在の)~名古屋間は、
当初より二線(東海道、中央)が並んで敷設されている。
・・・・・・
・・・・・・なるほど!、開業時の駅は、千種駅、勝川駅、高蔵寺駅、多治見駅で、
この中で 名古屋市内の駅は千種駅のみ なのである。

※ ちなみに、現在中央本線:名古屋市内の駅は、大曽根駅、千種駅、鶴舞駅、金山駅である。
  * 大曽根駅は明治44年 「フムフム、なるほどね」
  * 鶴舞駅は昭和12年 「あぁ、戦前かぁ」
  * 金山駅は昭和37年(東海道本線は平成元年) 「ありゃ、つい最近なのね」  の開業。 

K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 鶴舞の歩道橋から見る中央本線、上は名古屋高速

先に示した中山道ルート:中央本線(中央西線)が直に岐阜に接続せず、
この地方の中心都市たる名古屋を経由することの必然は、時の流れから理解できる。

- ただ前日記したように、私はダーウィン進化論的思考をしてしまうので(笑)
- この中央本線(中央西線)が、「 中山道 」そのままに、直に岐阜に接続していたならば、
- 当然、この地方の様相も全く異なっていたはずである、もちろん。

K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 中央本線 × 新堀川

その後、中央本線(中央西線)は、
「名古屋~多治見」の2年後に現在の中津川まで延伸している。

11● ~1902年(明治35年)12月21日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 中山道ルートへ

K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 現在、千種~大曽根間の殆どは掘割式

K10D + Sigma 10-20mm F4-5.6 同上、戦後の工事のようだ

・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・

ところで、そのルートが名古屋経由であるにしろ、
名古屋の街の北側を走らずに、わざわざ街の南側に回り込むことの意味は・・・



●名古屋駅に 関西への進路方向(北向き)で接続 する必要、
●街の西端の名古屋駅の東方、広小路の延長線上に
 新駅(千種駅)を設置すること(つまり、挟み込みね)による 街の活性化期待
●街の北側(=名古屋城の北側)の 地盤の問題

等が考えられるのだが、果して如何だろうか。

2007.05
19
私には、米国キリスト教保守派の言う インテリジェント・デザイン より、
これはもう完全に ダーウィン進化論 の方がまだ理解可能なので・・・

○ Wikipedia - 進化論
○ Wikipedia - インテリジェント・デザイン

私が住んでいる街、訪れた街についても、そんな街々の今の姿を見るにつれ、
無性にその街の 昔の様子 を知りたくなるというもの。

中でも最も自分の想念を遊ばせる(笑)ことができるのが 地図 である。
・・・・・・
・・・・・・
Google Maps をキャプチャー 「たのしいな」
・・・・・・
・・・・・・
と言うわけだから、
「名古屋の古地図、それも街が急速に発展していく明治期の地図を見たいよぉ」
と様々な検索語を試した結果・・・ついにありました!

明治24年の名古屋地図は国土地理院から出ているのだが、
それにも況して貴重な資料がザクザクだ。

これまでに見た中で最も充実した内容だ。
何故今まで見つけられなかったのだろう・・・
(確かに殆どの記事が、テキスト文字を避けて作成されている)

さて、そのサイトはと言うと、
(財)中部産業活性化センターの運営しているサイト
○ みんなの中部

で・・・・・・

資料ザクザク はそのサイト内にある
○ 映像で綴る名古屋の400年

「・・・素晴らしい!」
2007.05
07
繋がってはいないにせよ、
「 東海道 」 は全て明治28年に 鉄道に置き換え られた。
のは、前回に書いた通り。

7● ~1895年(明治28年)11月7日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 2つの「草津~名古屋」

「草津~名古屋」 の一つ、伊賀~伊勢ルートは、
「関西鉄道」という民営の鉄道会社(民鉄)によるものであるが、
近畿圏においては他民鉄による路線開業も盛んだったようだ。

一方、この時期には官鉄も日本海側の延伸を図っている。

8● ~1896年(明治29年)7月15日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 「京都~奈良」「敦賀~福井」

またこの年(明治29年)の10月21日には、
明治22年に開業の 「 新橋~神戸 」 が、正式に「 東海道線 」 に。

K10D + DA 16-45mm / F4 現在の東海道本線

当時の官鉄(官営鉄道)と関西鉄道のライバル意識は相当のものだったようで、
その辺の事情を思うと、「 東海道線 」正式命名の件・・・ちょっと笑える。

さて、その・・・関西鉄道は、

9● ~1898年(明治31年)11月18日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 「 網島~名古屋 」の直通運転開始

明治31年11月18日に、
「 網島~(四条畷経由)~名古屋 」 を開業する。
(現片町線~関西本線、網島駅は、現在の京橋駅傍)

いやはや、これはかなりきてますね。
しかし、名古屋と関西の間に二つの動脈が出来たわけで、
それはそれで喜ばしい。


ところで、このまま時を追って眺めていっても限がないので、
その二つの「 名古屋~関西 」路線のその後はと言うと・・・

明治39年3月に 鉄道国有化法案 が成立(民鉄17社の買収)し、
ついには 明治40年10月1日 に 関西鉄道は国有化 されてしまう。
・・・
・・・
・・・ - 時は 「 富国強兵 」 を唱える明治の世である。
・・・ - ○ Wikipedia - 日清戦争(明治27年(1894)7月~明治28(1895)4月)
・・・ - ○ Wikipedia - 日露戦争(明治37年(1904)2月~明治38(1905)9月)
・・・ - つまり、軍事的物流の一元化を目的に再編されたと言える。
・・・ - ○ Wikipedia - 鉄道国有法
・・・ - ○ 鉄道博物館 収蔵資料紹介
・・・
・・・
・・・ のだが ・・・ その後も ・・・
本来の「 東海道 」が「 東海道線 」に付替えられることはなく、今日に至ってしまうのだ。

*istDS + Helios 40-2 85mm / F1.5 北から名駅を見る

さてさて ・・・
必ずしも「 東海道線 」の物流能力が万全ではなかった事は、
先の大戦中に「 関が原~大垣 」に下り専用線を増設していることで判る。
○ Wikipedia - 新垂井駅



にも拘わらず、「 東海道線 」がずっとそのままであったのは、
・・・・・・
以前にも増して大陸に目を向け出した国策上の
日本海への物流路の確保 である事は疑いない所。
或いはまた、濃尾地震の記憶もまだ生々しい時に
名古屋西部地域のその 軟弱地盤を危惧 したのかもしれぬ。


さてさてさて ・・・ ようやく本題なんだがっ! ・・・
・・・・・・
現代の名古屋の街の重心は、
より東へ東へ、或いは南へ南へと偏重している。
しかし、この 「 東海道 」 に(西方に)もう一度眼を向けてみる 事が、
これからの名古屋という街の全く新しい創造に繋がるのではないかと、
・・・そう私はまぁ~ったく個人的にだが、そう思えて仕方がない。

(ふぅ、ちょっと引っ張り過ぎたかな?!?)
2007.05
04
ガタゴトゴットン・・・ガタゴトゴットン・・・
*istDS + XR Rikenon 50mm / F2 堀川 × 東海道本線

- この時の 「 名古屋(名護屋) 」 は、
- 東京と大阪の間に位置する街ではなく、
- 紛れも無く 太平洋と日本海の間に位置する街 であって、
- この街の西のはずれをかすめるように、
- ガタゴトゴットン・・・ガタゴトゴットン・・・と機関車は走っていたはずなのである。
2007.05
02
前回書いた ○ 「 ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 関西圏 ~ 日本海(敦賀港)

2● ~1886年(明治19年)6月1日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 名古屋(名護屋)の街はずれを

3● ~1887年(明治20年)4月25日
ALPSLAB をキャプチャー + 加筆 太平洋 ~ 日本海


「 そうそう、こういう景(系?形?繋?)だったのよ!」
と自らもようやく納得、今日は酒が旨いはず。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
ところで、地図にして初めて印象付けられたのは・・・
この時代に於ける 敦賀 という街の特異性。なんだか無性にそそられる。

○ Wikipedia - 敦賀港
○ (社)敦賀観光協会
○ JR西日本 : ブルーシグナル - 鉄道物語

「 鈍行夜行列車で行く敦賀 」 とか無いもんか ・・・ ねぇ!
太陽光発電でECO