ちょっと間が開いてしまったが、昨年12/4の
中日新聞市民版 で
「 名古屋の城下町 西に5度傾き 」 という記事が載っていたので、掻い摘んで紹介することにしよう。
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碁盤目状に整備された名古屋の城下町。戦国時代に今川氏の平城「那古野城」の前に集落があったというが、名古屋城天守閣の完成は1612年。城下町はさらに時代を下る江戸時代に新たにつくられた。ならば、大通りを東西南北にきちんと合わせて整備してもよさそうなものだが、・・・
・・・大通り同しは直角に交わっているが、城下町を上から見ると、町自体が西(東)方向に五度回転しているという。
・・・
1600年ころ、磁石のN極が示す「磁北」は真北より五度ずれていた。「これでいける」・・・その後の調査で「東に五度」のずれだったと分かり、この仮設も正しくないことが判明した。
・・・城下町の中心を南北に走る本町筋を南にまっすぐ伸ばしてみた。すると、熱田神宮の表参道と交わることが分かった。
名古屋城ができる前からある由緒ある熱田神宮。・・・
・・・ 交差点は、東からの東海道と北西からの佐屋街道、さらには七里の渡しからの人々が集まる場所だった。
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なぜ五度傾いて明確な答えは見つからなかった。だが、新たな人やものの流れをつくろうと町を整備した結果である可能性は高そうだ。・・・
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※ H19/12/04 中日新聞市民版記事から抜粋、太字・下線は加筆
残念ながら・・・私にとってこの記事は、
「蛙ってオタマジャクシが成長したんだよ、知ってた?」 程度の内容であった。
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しかし 「 熱田の街の名古屋の街への関わり方 」 を考えるには格好の記事である。

伝馬町 - 旧東海道
私は
名古屋の街のそもそもの基点は熱田の街 だと思っている。
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それは以前、堀川の普請の事を書いたものを参照して貰いたい。
○
清洲越え、堀川のドンブラコ・・・・・・
・・・・・・
現代に生きる私たちの幾何形に対する観念は、
先に引用した新聞記事の下線を引いた文章
「
大通りを東西南北にきちんと合わせて整備してもよさそうなものだが 」
のように、知らず知らず過大でやっかいな脳内操作を犯すことがある。
・・・
即ち 「
西(東)方向に五度回転しているという 」 は、
この地の史実を静思すれば、
「 偶々の五度 」 が私の意見である。
以下に私なりの意見を少々記そうと思う。
・・・
取り敢えず、件の「五度線」を落としてみよう。

熱田⇔古渡城⇔那古野城
街の南北基準軸を為す本町通を延長させたこの「五度線」は、
( 街建設時には既に廃城とはなっていたものの )
古渡城 と
那古野城 の跡地をきれいに結んでいるのが判るだろう。
○
古渡城 - Wikipedia○
那古野城 - Wikipedia廃されたとはいえ、その場所の地の利は失われない。
名古屋城が那古野城の跡地に築かれる ことは、
大坂方への備えという城の建造目的から言っても妥当な決断である。
○
名古屋城 - Wikipedia・・・
ところで上記の三点が一線上に並ぶ事実は、何の不思議でもない。
実は三点とも
熱田台地 の上に築かれているからである。
- 熱田台地については、名古屋市サイトにある次のページを参照して欲しい。
- ○
なごや水の環(わ)復活プラン:第2章 名古屋市域の現況(pdf) - 「なごや水の環(わ)復活プラン」全体のプランを見たい方は、・・・
- ○
名古屋市政>条例・規則・公報>ごみ・環境保全に関する条例等
>なごや水の環(わ)復活プラン - ・・・
- あるいは、熱田台地について書き加えたページを。
- ○
「 熱田台地 」 ってどこだろう?実は何を隠そう、熱田から見ればこの
熱田台地が西に振れている のである。

熱田台地に「五度線」を引く
つまり名古屋の街の碁盤目は、
・・・
熱田神宮表参道と東海道交差点を基点に那古野城跡地に新たに建造する
名古屋城へと引いた線 を軸に
計画されたに過ぎないと言える。
何とも素直、そこには一切のけれんみも無いはずだ。

表参道も東海道もブツ切れ
・・・・・・
・・・・・・
ついでにここでもう一点
「きちんと合わせて」 なる観念 についても触れておこうと思う。
・・・
私たちは碁盤目と聞くと
ついつい京の街を思い浮かべてしまうのが難なのだが、
日本の街できれいに東西南北を向いている街などそうそう無い。
- 京都は中国の都城制にならい
- 御所を置いた特殊な都であることを知っておかねばならぬ。
-
-

御所を基とする京の街
或いはまた、近世~の神社社殿は真南を向いていて、
これも私たちを惑わせる要素であることも事実である。
・・・
伊勢神宮及び当の熱田神宮社殿は真南を向いている。

熱田神宮拝殿
- 但し熱田神宮は明治26年に伊勢神宮を真似て再建されている。
- それまでの社殿がどうだったかについては勉強不足なので不知。
- 詳しい方にお聞きしたいと思う。
しかしこの真南の指向というものは、
時代が下って形成されたものではないだろうか。
・・・
いや、これは私の単なる推論に過ぎぬ。
権威を欲するものは威を得る為に格上の格好を真似るものだから。
- 京都に住んでいた頃、
- 神社仏閣へはよく散歩しに出かけていたものだが、
- 例えば上賀茂神社も下鴨神社も八坂神社も
- 京の街に隣接しながらも向きはてんでバラバラなのである。
-
-

上賀茂神社
- ○
賀茂別雷神社 - Wikipedia -
-

下鴨神社
- ○
賀茂御祖神社 - Wikipedia -
-

八坂神社
- ○
八坂神社 - Wikipedia -
- ところが・・・である。
- 明治28年に創建された平安神宮は真南を向くのである。
-
-

平安神宮
- ○
平安神宮 - Wikipedia -
- ・・・・・・
- ・・・・・・
-
- そうだ、興味が湧いたので・・・鳥居で有名な厳島神社も見てみよう。
-
-

厳島神社
- ○
厳島神社 - Wikipediaこうやって見てみれば、名古屋の街の碁盤目が、・・・
東西南北にきちんと合わせて整備される観念など
当時全く求められていなかっただろうことが伺えるのではなかろうか。
- それでもなお何らかの観念が影響を及ぼしたと考えるならば、
- あぁ言っていいかなぁ・・・トンでもない仮説だけれど、
- うん、元々の熱田神宮が西に五度傾いていて ・・・

熱田神宮正門にて
・・・・・・
・・・・・・
以上述べてきたように、
当時にあっては碁盤目の方位など意に介さずの観念であったはず。
- 更に穿った見方が許されるなら、
- この軸の上に配された熱田⇔名古屋城を結ぶこの道の
- 正に朱雀大路のようなプランがあったかもしれぬ。
- ○
朱雀大路 - Wikipedia - ・・・
- 現実には江戸初期に旧古渡城北隣接地での刑場設置や、
- 熱田台地の地形に任せた結果だろう、迂回する形をとる。
とどのつまり、一直線に結ばれる事こそが重要だったのであり、
その時、歴史が動いて ・・・
軸の基点として 熱田 と言う場が選ばれた事実だけは確かなように思える。
- これは、名古屋という街にとって
- 熱田の街が如何に重要な位置にあるかを改めて示すものに他ならない。
故に今、「名古屋トライアングル」は次の様な様相を呈する。

名古屋トライアングル
熱田⇔名古屋また現在の市域全体で俯瞰したい場合は次図を。
名古屋トライアングル - ヘキサゴン言い忘れた。
・・・
中日新聞の記事にもある磁北のことだ。
磁北というものは年と共に僅かづつだが動いている。
詳しくは下サイトの「Q7: 磁北、方眼北とはなにか(特別な方位の基準)?」を。
○
地図センター > 地図博士の部屋 > 地図のQ&A (6~10) - 今からちょうど200年前に、
- 磁北と真北が重なっていたようである。
- ・・・
- あ、そうそう、
- 400年前にあえて磁北で碁盤目を計画ということなら、
- 大坂の街の方が妥当性がありそう・・・ではある。